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大阪地方裁判所 昭和58年(レ)50号 判決

控訴人 藤田和子

右訴訟代理人弁護士 相馬達雄

同 山本浩三

同 中嶋進治

同 豊蔵広倫

同 小田光紀

同 藤山利行

被控訴人 向井慶子

右訴訟代理人弁護士 秋山英夫

主文

一  原判決を取消す。

二  被控訴人は、控訴人から金一〇〇万円の支払を受けるのと引換えに、控訴人に対し、控訴人が別紙物件目録記載の建物につき有する別紙賃借権目録記載の賃借権を神戸市東灘区住吉東町三―九―三七、松山雅子に譲渡することを承諾せよ。

三  訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  控訴の趣旨

1  原判決を取り消す。

2  (主位的)

被控訴人は、控訴人から金一〇〇万円の支払を受けるのと引換えに、控訴人に対し、控訴人が別紙物件目録記載の建物につき有する別紙賃借権目録記載の賃借権を松山雅子に譲渡することを承諾せよ。

3  (予備的)

控訴人と被控訴人との間において、控訴人が別紙物件目録記載の建物につき有する別紙賃借権目録記載の賃借権を譲渡するにつき、被控訴人が控訴人から右賃借権譲渡価格の一割に相当する金員の提供を受けること及び譲受人が外国人・暴力団関係者でないことを条件に、これを承諾する義務を有することを確認する。

4  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

二  控訴の趣旨に対する答弁

1  本件控訴を棄却する。

2  訴訟費用は控訴人の負担とする。

第二当事者の主張

一  控訴人の請求原因

1(一)  被控訴人は、中川鶴子(以下「中川」という。)に対し、昭和三〇年七月二〇日、大阪簡易裁判所昭和二九年(ユ)第六七三号家屋賃貸借継続等調停事件において成立した調停により、被控訴人の所有する別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)を、賃料は一か月金一万七〇〇〇円、毎月末日限り当月分持参払、使用目的は喫茶店とし、中川は被控訴人の承諾を得た上で賃借権を譲渡し得るものとし、被控訴人は正当の事由がなければその承諾を拒否し得ないものとする旨の約定で賃貸した。

(二) 控訴人は中川から、昭和三〇年一二月六日、同人の有する本件建物の賃借権のほか喫茶店「白牡丹」の営業権、電話、什器、設備一切を金一三五万円で譲り受け、右譲渡につき、被控訴人に対し、金一三万五〇〇〇円の名義書換料を支払って同人の承諾を得た。

(三) 右賃借権の譲渡に伴ない、控訴人は、被控訴人と中川間において調停で合意された約定をそのまま承継したから、被控訴人は控訴人に対し、賃借権譲渡の承諾を拒否できる正当な事由が存する場合を除き、賃借権譲渡を承諾すべき義務を有する。

2(一)  その後、控訴人は被控訴人との間で、昭和三一年一月、本件建物賃借権の内容につき協議した結果、賃料は一か月金一万七〇〇〇円(ただし、その後増額され、現在は九万五〇〇〇円)、保証金は金一〇万二〇〇〇円とし、期間の定めはないこと、控訴人は被控訴人の文書による承諾を得た上で本件建物の賃借権を他に譲渡し得るものとすること、この場合において控訴人はその賃借権譲渡価格の一割に相当する金員を名義書換料として被控訴人に支払うべきものとする旨の約定がなされた。

(二) その際、被控訴人の代理人である向井博は控訴人の代理人である藤田悠次郎に対し、口頭で控訴人が本件建物の賃借権を譲渡するにつき、譲受人が外国人・暴力団関係者でないことを条件に、これを承諾することを約した。

(三) 控訴人・被控訴人間の右契約は前記調停における合意的内容を確認し、一部契約条件を変更したにすぎないものであるから、被控訴人の承諾義務になんらの消長を来さない。したがって、被控訴人は正当の事由がなければ賃借権譲渡を拒否することができず、控訴人から賃借権譲渡価格の一割相当の金員の支払を受けるのと引換えに控訴人に対し右譲渡を承諾する義務がある。

3(一)  控訴人は、それ以来、約二七年間本件建物で喫茶店「白牡丹」を営業してきたが、五〇歳を越え、喫茶店営業に不向きとなったため、本件賃借権を含む喫茶店の権利を第三者に譲渡して投下資本の回収を考えるに至り、昭和五八年七月四日までに、右賃借権譲受けの意思を有する神戸市東灘区住吉東町三―九―三七松山雅子との間で、被控訴人の承諾が得られた場合、本件賃借権を金一〇〇〇万円で譲渡する旨約した。その結果、控訴人が被控訴人に支払うべき承諾料は金一〇〇万円となった。

(二)松山雅子は、株式会社日商岩井大阪食料部食料三課課長代理松山稔の妻であり、外国人・暴力団関係者でない上、社会的信用・資力とも十分であり、その他譲受人として不適格な事由はない。

(三) しかるに、被控訴人は、控訴人の松山雅子に対する本件賃借権譲渡につき、その承諾をしない。

4  よって、控訴人は被控訴人に対し、被控訴人に存する賃借権譲渡の承諾義務に基づき、主位的に控訴人から金一〇〇万円の支払を受けるのと引換えに松山雅子に本件賃借権を譲渡することにつき承諾の意思表示を求め、予備的に被控訴人が請求の趣旨一3記載の賃借権譲渡の承諾義務を有することの確認を求める。

二  請求原因に対する被控訴人の認否及び主張

1  請求原因1(一)の事実は認める。(二)のうち、名義書換料を支払ったことは否認し、その余の事実は認める。(三)の主張は争う。控訴人の主張する譲渡特約は、被控訴人と中川との間の取り決めであり、控訴人と被控訴人間の賃貸借契約に承継されない。

2  同2(一)の事実は認め、(二)の事実は否認する。(三)の主張は争う。

3  同3(一)のうち、控訴人が、約二七年間本件建物で喫茶店「白牡丹」を営業していることは認め、その余の事実は知らない。(二)の事実は知らない。(三)の事実は認める。

4  本件のごとき承諾請求はそもそも許されないものである。すなわち、賃貸借関係は賃貸人と賃借人との間の信頼関係の上に成立するものであって、賃貸人は賃借人が賃料の継続的支払に耐え得るか、また将来にわたって平穏な賃貸借関係を維持し得る相手であるかにつき重大な利害関係又は関心を持っており、賃借してくれれば相手は誰でもよいというものではない。特に建物の賃貸借においては、借地非訟法によって保護されている土地の賃貸借の場合とは大いに事情を異にしている。この意味において、賃貸人は賃借人を選択する自由を有する。したがって、被控訴人は、賃借権譲渡の承認を拒否する自由を有するのであって、控訴人の本訴請求は、家屋の新たな賃貸借契約の締結を強制するのと実質的に何ら異るところはなく、賃貸借関係の本質的部分を無視し賃貸人の選択の自由を侵害するものであるから、請求それ自体が許されないというべきである。仮りに、右承諾につき何らかの特約があったとしても、右特約から当然に承諾をなすべき法的義務が生ずるものではない。又、本件のごとき承諾請求について仮りに認容の判決がなされても、判決主文には期間、賃料額、保証金額、支払方法等賃貸条件は何ら明示されていないから、右判決内容は実現不確実(広義の執行不能)である。したがって、かかる不確定要素を多分に含む判決を訴求すること自体理由がないものである。

三  被控訴人の抗弁(事情変更による契約の失効)

1  控訴人が中川に対し支払った喫茶店についての権利金(賃借権譲渡の対価)は、控訴人が二七年間も営業を継続したことにより、既にその投下資本を回収し得ているはずである。

また、控訴人が賃借権の譲渡を受けた昭和三〇年ごろは、いまだ建物が払底し、住宅や店舗を貸してもらうことは、賃借人にとり大きな利益をもたらすものであった。そこで、建物の賃貸借契約においても、賃借人から賃貸人に対する報償的な意味で多額の金銭の授受がいわゆる権利金の名目で行われており、賃借権譲渡の場合も、旧賃借人は権利の譲渡の名目で新賃借人から権利金を回収し、賃貸人は新賃借人から改めて権利金を徴収するわけにはいかないので、いわゆる名義書換料の名目で、新旧賃借人間で授受される権利譲渡の対価の何パーセントかに相当する金員を受領することが慣行として行われてきた。しかしながら、戦後三八年間経過した現在では、経済情勢は著しく変化し、右の慣行はいつの間にかすたれてしまい、営業用店舗でもその賃貸借に当たっていわゆる権利金(返還を要しない)を授受する例はほとんどない。また、賃借人が開店準備のために内装その他に多額の費用を投じたとしても、営業に失敗すれば、投資を誤ったものとして諦めて店舗を明け渡すだけであり、権利の譲渡の名目で投下資本の回収を図るものはいないしそれを譲り受けるものすらいない上、かえって、場合によっては賃貸人から明渡しに伴う義務履行として原状回復を求められることもある。

右の次第で、控訴人は本件店舗については単に賃借権という形骸を有するにすぎず、ただ賃貸人に帰属する無形の場所的利益を他に高価に売却して不当に利得しようとするものであるから、被控訴人はもはや右譲渡につき承諾する義務はない。

2  次に、本件建物は昭和二四年ごろ築造(焼失建物の改築)したもので、既に三〇年以上経過し全体として老朽化していて近隣の風情にも適合しなくなっている。加えて、被控訴人夫婦は既に老境にあって建物の維持管理は過重の負担となってきており、今後一切賃貸を止めようと考えたとしても、それは被控訴人の自由である。

3  以上のように、控訴人・被控訴人間の契約当時の事情は変更しており、仮に控訴人の主張が認められるとしても、現在ではその契約の効力をそのまま認めることは被控訴人に対し酷であり信義則に反する。

四  抗弁に対する控訴人の認否及び主張

否認する。本件において事情変更の原則は適用されない。すなわち、経済情勢の変化は、譲渡承諾義務の前提となる事情と全く関係がない。また、営業のための賃借権の譲渡が投下資本の回収を目的とするものであるとしてもそれだけにとどまらないし、営業を長期間継続することにより投下資本を回収したか否かと譲渡承諾義務の消長とは無関係である。しかも、譲渡承諾により被控訴人は従来通りの賃貸義務を負担するだけで何ら不利益を課するものではない。

第三証拠《省略》

理由

一  本件承諾請求の適否について

被控訴人は、民法六一二条の規定を根拠として、賃貸人は賃借人を選択する自由があるから、賃借人は賃貸人に対して賃借権の譲渡又は転貸につきその承諾を求める権利を有しないし、又右承諾を求める訴訟も許されない旨主張する。確かに、民法六一二条の規定のどこからも賃貸人が賃借人に対して当然に承諾義務を負うとの解釈はでてこないし、借地の場合は借地法九条の二の規定により賃借権の譲渡又は転貸が賃貸人にとって不利となる虞れがない場合には裁判所は賃貸人の承諾に代わる許可をすることができると定め、事実上一定の場合賃貸人の承諾義務を認めているのに対し、借家の場合はこのような規定はない。しかし、借家についても、営業の譲渡に伴う建物の賃借権については右と同旨の案が考慮されたが、結局立法に至らなかった経緯があり、右取扱い上の差異は立法政策上の問題であり、性質上の差異に基づくものではないから、借家の場合はおよそ賃貸人の承諾義務は全く問題にならないとの解釈はとり難く、少くとも承諾について特約のある場合は、右特約に基づいて賃借人は賃貸人に対し右承諾の履行を求めることができ、且つその利益を有すると解するのが相当である(参照・借地につき最判昭和四二・一・一七・民集二一・一・一、東高判昭和五六・一二・二二・判時一〇三一・一二六)。もっとも、被控訴人は、このような解釈をとると、賃借人はいつでも特約と称するものを根拠として賃貸人に対し承諾を求め、その結果、賃貸人の選択の自由が侵害される旨主張するが、右特約は民法六一二条の規定をそのまま引き写した程度の約定ではこれに該らないし、民法六一二条所定の賃貸人の承諾も賃貸人の恣意を許すものでないことは当然であり、新規賃借人の場合の選択の自由とは自ら場合を異にするし、又、具体的な承諾義務の認定に当たっては、新賃借人となるべき者につき背信性が一切の事情の下に考察され、右義務が否定される場合もあるのであるから、被控訴人の前記主張は採用することができない。よって、被控訴人との間の右承諾に関する特約に基づき右承諾を求める控訴人の本訴請求は適法というべきである。なお、被控訴人は本件認容判決によっても新賃借人との間の賃貸条件は明示されず実現不確実である旨主張するが、賃借人は賃借権譲渡前に特約に基づき賃貸人に対しその承諾を求め、その判決が確定することにより、新賃借人となるべき者は従前の賃貸条件をそのまま承継し、その賃借権をもって賃貸人に対抗することができるから、本件認容判決が実現不確実との主張も又採用することができない。

二  被控訴人の承諾義務の存否について

1  請求原因1(一)、(二)の事実(ただし、名義書換料の支払を除く)は当事者間に争いがない。控訴人は、中川から本件建物の賃借権を譲り受けたとき、被控訴人に対し、名義書換料として金一三万五〇〇〇円を支払った旨主張し、《証拠省略》には、中川が被控訴人に対し、名義書換料として権利金の一割相当の金一三万五〇〇〇円を支払ったとの供述部分があるが、《証拠省略》には、いずれも名義書換料を支払う旨の約定はないこと並びに《証拠省略》に照らしにわかに措信し難く、他に名義書換料の支払を認めるに足りる証拠はない。

2  請求原因2(一)の事実は当事者間に争いがない。

《証拠省略》によれば、被控訴人及びその夫である向井博は昭和三〇年一一月ごろ、中川から本件建物の賃借権を控訴人に譲渡したい旨の意向を聞いたので、控訴人と会い、同人の身許調査をして問題がなかったことから右譲渡を承諾したこと、そして、向井博は、請求原因2(一)の約定を含む賃貸借契約書を作成し、これに控訴人の夫の藤田悠次郎が署名押印したこと、右契約書の内容については控訴人夫婦からは何ら異議は出されなかったことが認められ、右認定を左右する証拠はない。

3  そこで、前記各契約における承諾の特約の趣旨につき検討するに、《証拠省略》によれば、まず、昭和三〇年七月二〇日成立の契約については、その調停条項第五項において「賃借人中川つる外一名は賃貸人被控訴人の承諾を得た上で各その賃借権を他に譲渡し得るものとし、この場合は賃貸人は賃借人らに対して承諾書を交付するものとす。賃貸人は正当の事由がなければその承諾を拒否し得ないものとする。」旨定められていることが認められ、《証拠省略》によれば、右正当の事由云々とは、新賃借人となるべき者が身許がはっきりしており、且つ暴力団関係者、外国人、前科者等でなければ、被控訴人は右承諾を拒否できない趣旨であったことが認められる。そうすると、右契約においては、被控訴人は賃借人である中川らに対し、本件賃借権の譲渡又は転貸につき原則として承諾する義務を負担していたものと解するのが相当である。ところで、前記認定のごとく、控訴人は中川らから本件賃借権の譲渡を受けたものであるが、賃借権の譲渡においては、別段の意思表示のない限り、譲受人は譲渡人の地位をそのまま承継するものであるから、賃貸人と賃借人間の従前の賃貸借契約の約定に基づく一切の権利義務も包括的に承継されることになる。そこで、中川と被控訴人間の賃借権譲渡に関する特約条項の承継につき検討するに、《証拠省略》によれば、昭和三一年一月成立の契約の賃貸借契約書第五項において、「控訴人は被控訴人の文書による承諾を得た上で本件家屋の賃借権を他に譲渡し得るものとする。前項の場合においては控訴人はその賃借権譲渡対価の一割に相当する金額を名義書換料として被控訴人に支払うべきものとする。」旨定められていることが認められるところ、右約定文言を前記の昭和三〇年七月の契約の約定文言と対比すると、その前段の文言はほぼ同趣旨であり、後段の文言には変更があるが、昭和三一年一月の契約の文言は名義書換料に関する約定を追加したものであり、昭和三〇年七月の契約の後段の趣旨を否定する文言は一切ないから、文理解釈上も右後行契約の約定は全体として先行特約を変更する趣旨と解することはできず、むしろその趣旨を押し進めたものと解することができる。更に右両契約の間は約半年の短期間であり、その間に特に前記特約の趣旨を変更しなければならない事情も証拠上認められず、かえって《証拠省略》によれば、右後行契約の時点で被控訴人は賃借権の譲渡自体は原則として承認していたことが認められ、その他本件家屋が営業用店舗であることを考察すると、後行契約において賃借権譲渡に関する特約につき別段の意思表示がなされたものとはいまだ認め難く、結局、控訴人と被控訴人間の本件賃貸借契約においても、中川らと被控訴人間でなされた賃借権譲渡に関する特約を基本的に承継したものであり、従って、被控訴人は控訴人からあらかじめ譲受人を特定して承諾を求められたときは、譲受人となるべき者が適格であるときは、適格性調査に要する相当期間経過後、賃借権譲渡対価の一割に相当する金員と引換えに直ちに承諾の意思表示をなすべき義務を負担しているものというべきである。

三  事情変更による特約の失効について

1  事情変更の原則については民法に一般的規定はなく慣習法としても確立していないが、学説上契約の成立に際しその基礎となった事情がその後著しく変更したため、当初の契約内容の拘束力を維持することが信義則に照らして不当である場合に、当事者の発意でその効果を信義則に合致するように変更したり解消したりすることを認める原則であると解されている。そこで、本件において右原則の適用の当否につき以下検討する。

2  被控訴人は、経済情勢の変化により建物賃借権譲渡につき権利金又は名義書換料授受の慣行はすたれており、本件についても控訴人は永年の営業継続により既に投下資本を全て回収ずみであり、賃貸人である被控訴人に帰属すべき場所的利益が残存するのみである。このような場合に、控訴人が右賃借権を他に高額な価格で処分することは被控訴人に不当な損害を被らせるものであるから、被控訴人は右承諾を拒否できると主張するようである。確かに、本件契約時点と現在とでは経済情勢は変化し、住宅事情は好転していることは公知の事実であるが、右慣行がすたれたとの点についてはこれを認めるに足る証拠はない。又、控訴人が中川に対し本件賃借権の譲渡代金として一三五万円を支払い、「白牡丹」の営業を二七年間継続してきたことは当事者間に争いがないが、投下資本は右権利金に限らないし、その意味で右投下資本がすべて回収ずみであるとは証拠上未だ認め難い。又、被控訴人は場所的利益のみしか残存しないというが、その利益は賃貸人のみならず、賃借人の努力によっても形成されており、特に本件においては営業権の譲渡を伴うものであるから、控訴人が不当に利益を取得するとは必ずしも認め難い。これを要するに、控訴人の本件賃借権価格が零に等しいとの被控訴人の主張はその前提に誤りがあるから、賃借人が交替したとしても等価交代にすぎず、そのことにより被控訴人に対し多大の損失を被らせるものではない。仮りに被控訴人になんらかの損失があるとしても、右損失については新賃借人との間の敷金差入れ又は賃料増額交渉によってこれを補填する道が残されており、結局、前記諸点を理由として承諾を拒否することは相当でない。

3  次に、被控訴人は、本件家屋が老朽化し、被控訴人夫婦は老境にあって右家屋の維持管理は過重な負担であるから、被控訴人に承諾義務はない旨主張する。《証拠省略》によれば、本件建物全体は昭和二四年ごろ築造されたものであるところ、被控訴人は昭和二八年四月に幸福相互銀行から右建物を賃料収受の目的で買受け、以後他に賃貸してきたこと、現在、本件建物一階南側部分を控訴人が賃借し、一階北側部分を第三者が被控訴人から賃借して喫茶店を経営し、二階部分は被控訴人が従前歯科医に賃貸していたが、約八年前から被控訴人名義で麻雀屋を経営していること、そして被控訴人らが右第三者に明渡を請求した事実はなく、本件建物全体の改築の話はないが、全体として修繕の必要はあること、被控訴人は満六二才、夫の向井博は満七二才であるが、右夫婦は西宮市の自宅から右麻雀店舗に出勤し自らこれを経営管理していること、他方、控訴人は昭和五五年秋ごろ被控訴人に対し、健康上の理由から本件店舗の営業権を第三者に譲渡したい旨の意向を示しその承諾を求めたところ、被控訴人側は保証金六〇〇万円、賃料月額一五万ないし一六万円の条件を提示したことがあることがそれぞれ認められる。右認定事実によれば、新賃借人において賃貸人である被控訴人との間で信頼関係を維持できる者であれば、被控訴人に対しその承諾を求めることが信義則に反し被控訴人にとって酷であるとまでは認め難い状況にあるというべきである。

4  以上の次第で、本件においては、前記認定の特約に基づく被控訴人の承諾義務につき事情変更の原則を適用してその効力を消滅させるべき場合に該らないものというべきであるから、被控訴人の抗弁は採用することができない。

四  譲受人松山雅子の適格性について

《証拠省略》によれば、松山雅子は松山稔の妻であるところ、右雅子は本件店舗で喫茶店を経営する意思を有し、夫の稔もこれに賛成し、資金援助の意思を有していること、稔は日商岩井株式会社の課長代理の職にあり年収約八〇〇万円を取得し、神戸市東灘区内に自己所有の自宅を有すること、雅子と控訴人間において本件店舗の営業権を含めた賃借権価格として一〇〇〇万円で売買する旨の基本的な合意ができていること、ただし、右松山夫婦は過去に喫茶店を経営した経験はないことが認められ、他に右認定に反する証拠はない。右認定事実によれば、右松山雅子は少くとも前記特約で除外した例外の場合には該らないし、現段階では、従前被控訴人と控訴人間で培われた信頼関係をそのまま維持していくであろうことが推認され、特に右信頼関係を破壊するであろうことを疑わせる事実は証拠上いまだ認め難い。ただわずかに喫茶店経営に未経験な点が危惧されないではないが、背信性があるとまでは認め難い。

五  結語

以上の次第で、被控訴人は控訴人に対し、前記認定の特約に基づき控訴人が本件賃借権を松山雅子に譲渡するにつき、控訴人から名義書換料として右譲渡代金の一割に相当する一〇〇万円を受領するのと引換えに右譲渡を承諾する義務があるというべきであるから、控訴人の主位的請求は理由がある。よって、右請求を棄却した原判決は不当であるからこれを取消し、右主位的請求を認容することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九六条前段、八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 久末洋三 裁判官 三浦潤 中本敏嗣)

〈以下省略〉

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